死生観

"命日"…死ぬのに命?

"誕生日"…誕(偽り)の生きる日々の始まり。

この現界が仮想現実(マトリックスの世界)だと日本語が示唆してくれている。

死んだら元の世界(靈の世界)に戻るだけ。

亡くなった人の事を話す時に「生前は…」という表現もしますから、本来の世界に生まれる前がこの世界とも捉えられます。

では何故わざわざ靈(れい・たましい)が物理的な肉體に入り、三次元の現界に生きるのか。

それはこの現界が経験と学びの世界だから。

痛みのない靈界に、痛みをもたらすのが現界。

悲しむ、苦しむ、怪我・病氣をする。

そうなるだけの因果がある、原因がある。

そこに向き合わない限り、いくらお金をかけて他人に任せようが繰り返し学び続ける。

それが学びであり、人生の本質。

因縁因果の解決、解消。

それを無視しては靈性進化は進まない。

因果とは常に課題として現れる。

解決できる事であり、解決して欲しい事しか目の前に現れない。

何で自分だけがと思える様な事は、過去世に自分が他人にやってしまった事に過ぎない。

輪廻転生した後に同じ事態に遭遇し、解決、解消出来る様に試練として降りかかる。

今世で何も出来なくとも、死後また生まれ変わり、姿・形・場所を変えて因縁因果が解消されるまで繰り返される。

前世で犬猿の仲だった相手が今世では家族だっり。

その様に役回りを変えながら苦しみと愛を学び続けるのがこの世界の真理。

わからない、知らない、受け入れたくないのは洗脳が深くそういう因果だから。

仕方のない事、全ての人に各々経験に応じたタイミングがある。

子どもの方が靈性が高い場合もあります。

靈が本質的なのだから、子どもだから経験が少ないなんて思ってはいけない。

子どもに学ばせてもらう事になります。

洗脳深き我々を指導してくれるでしょう。

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