神社で会える

日本人が神社に行く最も大切な理由は、毎日の感謝の氣持ちを神様に伝える事です。
神道に入信した家庭でなくとも、初詣、結婚式、七五三などで多くの人が訪れた経験があるでしょう。

また、家内安全や無病息災、合格祈願といった願いを持った人が集うパワースポットとしての側面を待ち合わせる一方で、現代の様にいつでもどこでも連絡を取り合う事が出来なかったかつて、神社は地域の人々が集まって情報交換や井戸端会議をするコミュニケーションの場としての機能がありました。

"社会"という言葉は、そんな"神社で会う"という風景から生まれた言葉です。

この国における神社は、神様の家でありながらも、人々の心の拠り所として日本文化に根付いているのです。

同じ生き物にも関わらず何故、動物には脳があり、草木にはないかを徹底的に考えると、実は脳は思考の為に必要なものではなく運動の為に必要なもので、思考は運動の後付けである事がわかる。
という意味で脳の成長には運動が不可欠。

人間が動く(移動する)のは不安というモチベーションがあるから。
究極的には街路樹になる事が人間の一番の幸せになる。
身体操作のお手本は動物だけど、生き方のお手本は植物です。

一人で世界を旅して、旅の途中で幸せそうな親子を見ると「自分はどこでも行けるけど、どこにも行けないんだ」と思い知らされる。
人間は動く(移動する)と、逆に不幸せになり易い。
ホームシックです。

人が最後に救われるのは"足枷"
その場を動けない足枷で救われる。
今はお墓や代々の家や土地を無駄だとか手間がかかるだとか言う風潮ですが、それらを守る事で自分が守られる事を忘れています。
移民の問題の本質は彼らが"守るものがない"から。
短期的には無敵だが、根を張れない者は必ず倒れる。

自分の生き方や姿勢が曲がった時、逸れた際に入る"守りの力"
ご先祖様にゲンコツされて正規ルートに引き戻される有り難み。

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