「本が読めるかどうか」は、心身の状態を測るバロメーターの一つ。
人は追い詰められている時、視線を文字に留め続けたり、意味を頭に入れたりする事が難しくなる。
これは単なる気分の問題ではなく、神経系とからだの状態の反映である。
読書には、眼球をスムーズに動かし、行を正確に追う力(サッケードや滑動眼球運動)が必要であり、これは交感神経が過剰に優位になっていたり、エネルギーが枯渇している状態ではうまく働かない。
また、意味を統合しながら読み進めるには前頭前野の機能が安定していなければならないが、ストレス状態ではその働きも落ち易い。
更に、そもそも読書という行為は”安心している時(腹側迷走神経)”にしかできない。
からだが危機的な状況だと判断していれば、本を読む事よりも身を守る事を優先する神経状態に入ってしまう(背側迷走神経)
故に「怠け」ではないから安心して。
一方で、活字中毒に近い人の場合、読書が「逃避」や「自己調整」の手段になっている事がある為、むしろ追い詰められている時にこそ活字を求める。
ただし、そのような場合でも、意味が頭に入ってこないのに無理に文字を追い続けてしまうといった「読む事の異常」が生じている事も多い。
つまり、「読めるかどうか」は思っている以上に心身の余裕を映す行為であり、本が自然に読めなくなっているとしたら、それは集中力や認知機能の問題というよりも、からだと神経が「今はそれどころではない」と判断している証拠ともいえる。
読書の可否は、自分の心身の調子を知る為の繊細な指標になりうる。
そういう時に限って、スマホの画面に救いを求める様にスクロールし続けてしまう事が多いのですが、それが寧ろ神経系への負荷を深めてしまう。
スマホを見る時の眼球運動は、主に上下スクロール+短い注視+反復のパターンに限られていて、視線の幅も固定されがちです。
これは、本を読む時の様な水平移動や、深い焦点維持とは大きく異なる。
結果的に、眼球の動きが狭く単調になり、脳の処理領域も偏った使い方になる。
さらにスマホ閲覧では、瞬時の切り替えや刺激の多い情報の洪水が前提なので、視線は定まらず、神経系は常に微小なストレスを受けています。
これが積もると、視覚処理の柔軟性や眼球運動の調整力もどんどん落ちていく。
本が読めない時にこそ、スマホから少し離れて、視線を遠くに投げる、風景を見る、眼球を広く動かすといった身体的介入が必要。


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